ときめきとやすらぎをつなぐSOTETSU
おかげさまでもうすぐ100年 相鉄グループ

おかげさまで
もうすぐ100年、相鉄グループ

1917(大正6)年12月の相模鉄道株式会社創立からスタートした相鉄グループは、2017(平成29)年12月に100周年を迎えます。

多くのお客様、地域社会の皆様に助けられて、さまざまな事業を営んできました。
昔懐かしい写真を紹介しながら、地域の発展と共に歩んできた相鉄グループの歴史を振り返ります。

次へ

昭和40年代の砂利採取所

砂利採取は相鉄グループ創業以来の事業で、高度経済成長期には大井川や天竜川流域に採取所を持っていました。大井川沿いのとある採取所は、赴任した社員がみな「とんでもない所だな」とぼやくような深い谷間にありましたが、近くの水力発電所から放水があると、天気が良ければ川の上に鮮やかな虹がかかったとか。「あっ虹だ」「いや、もう四時だよ」の冗談がお決まりとなりました。


昭和30年代初頭の乗合バス

相鉄の乗合バスのワンマンカー運行は昭和38年から。それ以前は車掌が乗務し、狭い道路でのすれ違いなどは、車掌が誘導して行っていました。

車内が暗く音もうるさい当時のバスのこと、うっかり車掌を乗せないで発車してしまった…というアクシデントも。お客様から「車掌が乗っていないよ」と注意されて慌てて停車し、車掌が走ってきて「ああ怖かった」と乗り込むと、お客様からはどっと爆笑があがったそうです。


横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズ建築中

横浜駅西口広場の正面には、かつて相模鉄道の本社が入居するオフィスビルが建っていました。その跡地をホテルにしようと決めたのは、西口と相鉄線沿線の活性化のため。横浜駅西口は沿線のイメージを生み出す、いわば相鉄の顔なのです。

駅正面に28階建てのビルを建てるには、建物の工事だけでなく、歩道の下にあったライフラインをどう振り分けて道路を拡幅するかなど、関係者間で数多くの調整も必要でした。

横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズの開業は平成10年9月24日のことです。


昭和40年代初頭の横浜駅西口でのビル清掃風景

清掃や設備管理といった建物管理業務は、大規模な建築物が次々に建てられた昭和30年代にスタートしました。

横浜駅西口でも、横浜高島屋(昭和34年開業)、ダイヤモンド地下街(昭和39年開業)などの大規模施設の維持管理にメンテナンススタッフが活躍。 昭和30年代末には電動式の大型清掃機械も登場しましたが当初は作業効率も悪く、横浜の顔である繁華街を快適に保つ、大事な仕事をしているのだというスタッフのプライドが、多くが手作業で行われていた当時の清掃業務を支えていました。


分譲開始の頃の緑園都市住宅地

昭和51年に開通した相鉄いずみ野線沿線では、次々に大規模住宅地が開発され、最大規模の緑園都市住宅地の分譲が始まったのは昭和61年です。

図らずも、地価や住宅価格が高騰した「不動産バブル」と呼ばれた時代にぶつかり、一戸建て住宅では最高100倍以上、マンションでは700倍以上の抽選倍率を記録して、スタッフ自ら首をかしげるほどでした。

販売が近づくと事務所の電話は問い合わせで鳴りっぱなしとなり、ほかの仕事には全く手がつけられなかったそうです。


「横浜駅名品街」開業時の様子

昭和30年代に相鉄グループが開発を行う前の横浜駅西口は、商店もオフィスもほとんど無い野っ原でした。
鉄道開通以来家らしいものが建ったこともなく、電気も水道も幹線は入っていない土地で、工事は困難を極めたといいます。
相鉄ジョイナスやヨコハマタカシマヤの前身である「横浜駅名品街」「髙島屋ストア」の開業は昭和31年4月。
数日来の雨が雪に変わる中、徹夜で開業準備を行ったスタッフが当日朝に迎えたのは、素晴らしい快晴の下、名品街にあふれるお客様の波。
立ち止まることもできないほどのにぎわいでした。


「相鉄ストア」三ツ境店オープン日の様子

スーパーマーケット「そうてつローゼン」は、昔は「相鉄ストア」という名前で、昭和38年に開店した1号店は三ツ境駅前。
早朝からオープンを待つお客様の長い列ができ、閉店近くまで入場制限をするほどのにぎわいでした。
当時はもちろんバーコードなどは無く、商品の値札にはゴム印で値段を押し、それを貼っていくのもすべて手作業でした。
またその頃のレジはキーが固く、長時間打っていると指の先から出血したり、爪が割れたりする苦労があったとか。


大正15年、開業当時の三ツ境駅

現在の相模鉄道、当時の神中鉄道線が開通したのは1926(大正15)年のことです。
田んぼや山林の真ん中に駅があり、10分くらい歩かないと人家がないという場合も。
そんな駅では雨の日にでもなればお客様の姿も無く、せっかく点灯したランプもすぐ消えてしまうなど、駅員も寂しい思いをしたようです。
鉄道事業には初めて従事するという駅員ばかりで、参考書で勉強しながら毎日の仕事に取組んだという記録が残っています。